「なぜ同じ医学生で、解剖学知識を私より知っている後輩に解剖学的に教えて見につかないのだろう」
なかなか教えていて話が噛みあわないことが多く、それにより技術考察が進んだりしてきたわけだが、今さらながらこの根本的な疑問に答えが見つかってきた。
今回は指導者がいいくら教えても身につかない原因を考察していく。
いっちゃあれだがうちの後輩達はあまり運動神経がいいタイプで無いし、他の競技をやれと言われても普通の人よりも上手くできないだろう。
それでも卓球が好きでひたむきに向かい合ってきたから様になっている、と前向きに解釈している。
彼らに対して教えることが出来れば明らかに私の指導力があると言えるだろうし、今の自分のモチベーションにもなっているのだが、たびたびブログでも漏らす「明らかに運動神経があって上手い人たちに教えたらどうなるんだろう」という 率直な疑問。
先日東医体(医学生の大会)で、ちょろっと隣県のインカレ選手と話した時のこと。
回内・回外のネタに踏み込んでいたり、平岡動画から考察し要素抽出をしていたりと同じレベルの話ができた。
最近の研究テーマを彼らに教える機会があれば、これでもかという位にすーっと浸透するだろうし、解剖学的観点からの考察も「○○選手の○○技術」をイメージしてと例示すれば私以上に卓球動画を見ているだろうから理解もされやすいだろう。
加えてより上のカテゴリーで試合をしているからこその悩みを聞ければ、それを元に必要な技術と必要な考え方を考察する機会を得ることができ、私の考察も1年早まるだろう。
よく引き合いに出す知り合いの三段選手と議論していても、1人で考察するよりも早く先のステージが見えるし、フラン氏がまだ学生だった時は脳が3つくらいに増えたくらいに考察が進んだ。
これは私の思ったことがすぐに伝わるレベル、私のイメージしたことを私の言葉で理解し表現できるレベルを相手にした場合。
卓球に関する理解度が私と同等か、私以上である場合に成り立つ。
この卓球に関する理解度は質・量共にバリエーションがすさまじくある。
初心者、中級者、上級者とレベルごとに必要な知識、男子、女子と性別で異なる運動量や流行のスタイルへの理解、中学生、高校生等年代ごと、もしくはメンタルの程度などなど、対象群によって指導する際に必要な理解度が異なる。
私が教えていて、議論していて心地よく思えるのはあくまで自分と同じ群に、同じ環境にいる相手に対してであり、少なくとも私が試合してみて簡単に勝ててしまう相手と話がかみ合うことはまずないといっていい。
要は私が教えていて違和感を感じてしまったが最後、私の対象に対する理解度が明らかにかみ合っていないことの証明となってしまう。
後輩に教えていてかみ合わないのは単純にその人のレベルが違う、環境が違う、卓球への理解度が違うだけではなく、私の対象への理解が全く足りていないからだった。
そもそもどこを理解すれば、同じ理解の土俵に上がれるのか。
どうしたら同じレベルで物事を見て、上達の過程を踏ませることができるのか。
それはその人の卓球に関する感覚を共有することなのではないかと考える。
だが、他人の卓球に関する感覚を共有するのは不可能である。
なぜならもう既に自分の中でミスをしにくい感覚を持ってしまっているし、ミスしやすい感覚をわざわざ真似しようにも、正しい感覚にジャミングされてそのまま素直にミスすることができない。
それに卓球の感覚といえば、聴覚、触覚、視覚に依存するものだし、どれもその人にとってのもの。生物として個体差のある部分であるし、完全に同一にすることは不可能である。
最近の記事で
前腕信仰の罠
視点に関する考察。
と、その人の見え方・意識の矯正、その人の触覚の制限のかけ方を考察した。
これらは全てその人の感覚の「最小」を知る為のもの。
前腕を使わずに上腕を使うというのは、過度に前に振ることを止めて最小の力で飛ばすことができるようになる、力の伝導効率を最大限によくするため。
視点に関しても、見え方一つで打球点が変わるなら、常に楽してミスなく打てるようにどういうものの見方をすべきかを考えたもの。
触覚(=力)の最小と、視覚(=眼球運動+首の運動)の最小の感覚を、より最小なものにする
これが上手くいけばほぼ全ての技術に繋がる。
ということで、最近あまり教える機会が無かった異質の後輩に、粒高でのハーフボレー、カット性ブロック、普通のブロック、ツッツキを教えていく際に、ひたすら最小を教えつつ、どうすれば安定して最小を作り出せるか一緒に考えながら練習した。
一番教えていて手ごたえがあったのは、「打球の直前直後の面移動を起こさないことで最小が常に最小であり続ける」の指導。
ツッツキは下方向に振る為にラケットの上半分に当てなければならないことを理解させた。
するとこれまで二年間どう教えても粒高でツッツキが切れなかったのに、今では普通に切れるように。
平岡式のツッツキとか、弾まない裏で感覚を教えてもダメだったのに、面移動の最小化+スイングの最小化+視点切り替えの考え方を教えたら急にハマった。
自分が感覚として理解してしまい、教わったことの無い要素を指導で省いてはならない
これが後輩指導で学ばせてもらった教訓。
それ故に、感覚を感覚として教えるのもまたNG。
感覚はあくまでその人の感覚でしかないのだから。
教えるべきは厚く、薄くの感覚の大小ではなく、むしろ感覚をより最小にするためのラケットワーク、面移動の基本だった。
また、ラケットに当てる際に、ラケットにぶつけにいくのではなく、ラケットをボールに近づけてから振り始めるというのもなかなか知られていない大事なポイント。
誰もがバックスイングを取ってしまう癖を付けてしまうため、寄せグセの真逆を覚えてしまい、なかなか気付く機会は少ない。
ラケットワークのカテゴライズも今度気が向いたらしてみようかと思います。
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